澤野由明のフェイヴァリット・ミュージシャンは誰か?
今密かな話題となっている(どこでや?)この謎を今回は扱うことにしよう。
澤野工房は現在のところピアノ・トリオのリリースを専らにしているから、きっと 彼はピアニストが好きに違いない、と誰しも思うだろう。それも多分ビル・エヴァンスじゃないか?いやいや、あれだけヨーロッパに強い人だし、エヴァンスというのはあまりにもストレートに過ぎる。ここは一番ウォルフガング・ダウナーあたりにしと こか……え?そこまでいくとちょっとクサイ?まあそうですね。
知っている限り、エヴァンスが好きというのは外れていないと思う(弟の稔さんのほうは間違いなくエヴァンス・フリークだ)。でも、エヴァンスは好きと言わないまでも嫌いな人を探す方が難しい存在だと思う。だからこの「好き」は一般的なレベル に留まりそうだ。
個人的なコレクションが好みを反映すると考えれば、実のところピアノ・トリオというのはそれほど執心している対象でないことが分る。澤野コレクションと言えば現在はTEMPO、一昔前はBLUE NOTE、ひねったところではパーカーのSPあたりが思い浮かぶ。となると、それだけで白人ピアニストを軸とした澤野工房の顔とは裏腹な黒っぽい好みだし、音もいわゆるゴリゴリ系だ。そしてホーンの存在は不可欠だろう。
かと言って、コルトレーンが好きだとかロリンズが好きだとかタビー・ヘイズが一番だとか言う話も聞いたことがない。おそらくこのへんは食べ物の中では麺類だ、あるいは焼肉だ、寿司だ、といった「ジャンル内ジャンル」をほのめかすに過ぎない。問題はもっと先にある。麺類ならうどんであり、うどんならあんかけであり、あんかけなら新世界は更科の「きつねあんかけ」だ、というところまで特定しなければこの稿の意味はない(大層な話や)。ざっと見たコレクションから分るのはせいぜい「ホーン入りのコンボ演奏が好きだ」という程度のことだ。
人の心の襞はおそらくヒマラヤ山脈を縦横に走る谷筋より深く複雑だ。しかし、奥の院に秘された仏像はしばしば穏やかな顔をしているし、最大の謎は最もシンプルな視点で解かれたりするものだ。クリスティの「アクロイド殺し」のように。
三つ子の魂百までも、という。本当の好みとは原体験のそばからそう簡単に離陸するものではない。
そういう場所に突入してみよう。案外そこは部屋の片隅で、ここぞという時にだけ顧みられたりするものだ。そこにあったものは……
セルジオ・メンデス!スイングル・シンガーズ!そして、何?石川さゆり!?ジャズはないのか、ジャズは。……あった!それもピアニストだ。オイゲン・キケロ!それからオスカー・ピーターソン!まだ奥があるぞ。CONTEMPORARYのポール・ウイナーズ!そう、彼はロイ・デュナン・サウンドのファンだったのだ。けれど、ホーンが入ってない。まだ本命じゃないね、これは。
一番最後は……見覚えのあるジャケットに人文字がアーテイストの名前を描いている……PAUL DESMOND……ポール・デスモンド……!勿論アルバムはWARNERのFIRST PLACE AGAINだ。
澤野さんは「おいおい、一寸待てよ」と言うかもしれない。それは卒業した世界なんだよ、と。確かにリスナーとしては膨大な経験をしているわけだし、人に薦めるとなれば違った名前が出てくるだろう。だが、私の見るところ、アーティスト単位でコンプリート・コレクションに近い取り組み方をしているのはデスモンドただ一人のはずだ。つまり、本音はそこにある(に違いない)。
人間、好みというものほどその人を如実に語るものはない。そうであるならば、澤野さんのことはデスモンドをして語らしめよ、だ。
デスモンドはデイヴ・ブルーベックの影法師だった、のだろうか?
以前、TV出演した折の旧いフィルムの中でバンド・リーダーのブルーベックがこんな意味のことを言っていた。
「自分たちリズムを風変わりだと思っている人たちが多いことは知っているが、今NYのダンスフロアではみんなテイク・ファイヴやブルー・ロンド・ア・ラ・タークで踊ってる」多分60年代の初頭のことで、早い話、異端に見える彼等の変拍子ジャズが今やメイン・ストリームなのだ、と言いたかったのだろう。そんなことはなかったわけだし、それ以降もないわけだが、才気はあっても致命的にスウィングしないこのピアニストは自信満々だ。デスモンドは側に端然と立っているだけで何も言わない。そしてバンドはブルー・ロンド~の演奏に入る。
ジャズ・チューン数あるなかで、そのメロディの有名さではテイク・ファイヴの右に出るものは少ないだろう。事実美しいし、独特の甘さと翳りがジャズの都会的な側面を匂い立たせる。ブルーベック・カルテットの代表曲で、言うまでもなくデスモンドの手になる。しかし、この曲は基本的にドラマーであるジョー・モレロのショウ・ケイスで、デスモンドは殆どソロを取らない。それはバンドそのものの要請だったのだろうが、意地悪く見ればソロの取りようがなかったのかもしれない。変拍子に注意を注ぐあまりに歌えなかったりして……(後年自身のバンドで演奏したライヴ録音があるけど、これも上等の演奏とは言えない)。
以後は邪推だ。
実は旧友のピアニストに、デスモンドはほとほと参っていた。つきあいも長いし、自分もしっくりくる間柄だったからずっとバンドを一緒にやってきたけど、ほんとのところ、アタマの中ででっちあげたような彼の音楽性にはどうもついていけない。あ のピアノに乗っかっていると、まるで四角い車輪の自転車を漕いでいるみたいだ。おかげで、ピアノをバックに吹くことさえイヤになってきた。彼はもっとフレキシブルで繊細なリズムが欲しかった。それにはギターだ。今度、自分のアルバムを作るときはジム・ホールに頼むとしよう……で、RCAからいくつかの名盤が輩出された……。
聴けば誰でも分るけど、デスモンドのソロはそれが第二のメロディであるかのように完成されている。RCA、TAKE TEN所収の「カーニヴァルの朝」あたりが良いサンプルだと思うが、よく歌うという表現がぴったりだ。彼のよりよき資質を、 ある意味型にはまったブルーベック・バンドでの演奏ではなくそちらに見つけるのは私ばかりではあるまい。
そのデスモンドの本領が一際発揮されたのがFIRST PLACE AGAINだろう。中でもB面の一、二曲目。ホールのアコースティック・ギターを伴ってのグリーン・スリーヴスと、続くユー・ゴー・トゥー・マイ・ヘッドは絶品だ。そこでは春の夕暮れを思わせるような、典雅とさえ呼びたい穏やかな世界がある。それを表現するのは歌心に溢れたデスモンドの透明な音色だ(余談だが、あの音色についてアルト吹きであった友人に尋ねたところ、リードを噛んで振動をコントロールしているのでは、と言っていた)。デスモンド自身、この二曲の組み合わせに特別な思い入れを抱いていたに違いない。後年リリースされた唯一のMJQとの共演ライヴでオープナーに再演されていることでもそれは明らかだと思う。
さて、ここで澤野さんに戻るわけだが、澤野さんにとっての「更科のきつねあんかけ」はずばり、このグリーン・スリーヴスではないだろうか。私は結構確信を持っている。では、そこから見えてくるものは何だろう? くつろいでいて、しかも確固とした美意識に支えられたジャズ演奏への嗜好。 まずはそういうところか。しかし、それだけでもない。デスモンドという人はそのキャリアにおいて全くスタイルを変えることがなかった。初期のFANTASY盤から遺作に至るまで同じデスモンドを聴くことができる。問題はその事実をどう捉えるかだ。
ジャズの本質をマイルスの進化、コルトレーンの変化に見出す人たちにとっては寧ろデスモンドの行き方は傍流であるだろう。だが、自己変革だけが力業なのではない。変わらない、ということの凄さも絶対にある。生涯にわたり、変わることなく透明でピュアな歌を奏でつづけたデスモンドのアルトに、私は「水鳥の足掻ォ」にも似たものを感じる。彼は見えない修練を背景にリスナーを優しく包んで来た、そんな気もする。目新しさであったり、声の大きさであったり、(それこそブルーベックがそうであったような)才能の披瀝であったり、そんな諸々よりも重要なことがあるだろう。
それは己の信ずるものに対する献身であるかも知れない。
それを進化や変化に対置するなら、あえて深化と呼びたい。
澤野さんが選び、リリースする作品群をそういうデスモンドのありかたと二重映しにするとき、澤野さんの共感するところがほの見える。
小難しいことはいい。まず楽しめる音楽を。そしてできることなら長く愛せる飽きのこない音楽を。そしてそれを裏打ちする信念が感じられるものを。澤野さんにとっての上質さはそんな顔をしているのではないか。澤野工房の作品群が支持を得ている秘密は、それらが澤野さんの姿勢を反映していて、それがリスナーに伝わるからだろう、とそう思う。
ところで、そんなに澤野さんがホーン好きなら澤野工房のカタログにピアノトリオしかないことは些か不思議だと思われることだろう。実は私もそういう一人なのだ。
しかし、しかし、だ。これにはきっと裏がある。澤野さんのことだ、必ず隠し玉を用意している。そしてそれは多分満を持して公表されるのだと思う。 我々をあっと言わせるために。
期待しようではないか。
<文 / 北見 柊>