番外編 SKETCH MUSIC

澤野工房 スタッフ

澤野工房のCDに付されたナンバーには主に2種類ある。これはもはや周知のことと思うが「AS」で始まるものと「SKE」で始まるものだ。

「AS」は【Atelier Sawano】の頭文字。「SKE」は【Sketch】の略号だ。

前者はサワノが探し、選び、あるいは企画録音したもの。後者はフランスのレーベルであるスケッチの制作したものをサワノが内容的に「認め」て工房の名を冠したものだ。そういう意味でCDそのものの成り立ちは違うがいわゆる「サワノ・テイスト」が特色であることは両者変わりないことはお分かりいただけるだろうか。

しかし、ここへきてSKETCHに関してはサワノが工房のリリースとするにはためらいを覚えるような、従って提携関係からディストリビュータとしての役割に納まらざるを得ないような作品が増えてきている。しかもそれが半端な量ではないのだ。

言うまでもないがそれは内容に疑問がある、ということではない。サワノを聴き続けている人が抱くだろうサワノ独特のイメージとはかなりかけ離れている、ということだ。

サワノはピアノ・トリオを中心に硬軟の微妙なグラデーションこそあれ「聴きやすい」「親しみやすい」ということを重要な立脚点としてリリースを続けてきている。工房に入ったSKEナンバーは、ともあれそこはクリアしているわけだ。

ところが、最近のスケッチのリリースはそうたやすく「聴きやすい」とか「親しみやすい」とは言えないものになっている。だからイカンのだろう、と思う方、速断は禁物、話はこれからなのだ。


ずばり言うと、それはジャズ入門者のための音楽ではない。


だっていきなりスティーヴ・レイシーがトリオで出てくる【WORK】とか、ベースレスでサックス・ピアノ・ドラムスのトリオ【GHOST SHIPS】とか、ピアノのかわりにヴァイヴが入ったワンホーン・カルテット【EAR MIX】とかあげくはベース・ソロのアルバム【THAT & THIS】まである。

  

クラシックの聴きはじめがバルトークというのはかなり無理があるのと同様、「ジャズとはこういうものです」とお薦めすることは難しいだろう。


ただ、「これもジャズだ!」と言える方にとっては、非常に「オイシイ」。


挑発的な編成、刺激的な内容。それがこちらの感性にぐっさりとフックしてくる。一度ひっかかると返しの鋭い釣り針のように食い込んで離れない。

そして、それが奇をてらったものではない証拠に非常に完成度の高い音像がそこにある。聴き込めばそこにしかない「美」に出会うことができる。何より「これはSKETCHの音だ」という強烈な自己主張を感じる。

それでなくとも狭いジャズのマーケットに向かってベース一本のCDをぶつけていく。ベース・ソロなんてロン・カーターや亡きジャコパスがやったところでそんなに売れるわけはない(ちなみにスケッチのそれはアンソニー・コックスが主人公)のに……。

これはプロデューサーが後先考えない道楽でやってるのか、カネを持て余した好事家なのか、と正直考えてしまう。本当のところは分らないが、とりあえずタダモノではあるまい。


その名はフィリップ・ギルメッティ。


02年秋、サワノが催したコンサートの際来日したご本人に「あなたは21世紀のアルフレッド・ライオンだ」とヨイショした。そりゃヨイショには違いあるまい?たかだか30枚ほどのアルバムを世に出したばかりの人間と天下のブルーノート創設者を較べるなんて……。

けれども、考えてほしい。70年代以降のヨーロッパのジャズ・レーベルはエンヤにしてもスティープル・チェイスにしても近年のクリス・クロスにしても素晴らしい作品を残してはいる。それらをハードバップとそれに続くムーヴメントの遺産の継承者と呼ぶことはたやすいが、個々に強烈なアイデンティティを表現していると言えるだろうか?

「これはワン・アンド・オンリーだ」という個性を求めるとすれば、それはあとにも先にもただECMがあるのみだ、と思う。

蒸留水をたたえたような潔癖な音空間に民族音楽やクラシカルな要素とのハイブリッドを描いたマンフレート・アイヒャー。強いて挙げるなら彼こそがライオンに匹敵する存在として屹立するだろう。

もしかしたら、もしかしたらだが、フィリップというプロデューサーはそれに迫る世界を構築できるかもしれない。そんな期待を抱かせる。

何より「人の言う事なんか知るかよ」とでも言いたげなマイペースぶりが良い。「売り」に関して天性のカンを発揮する澤野本人ですらしばしば「どうすればいい?」と頭を抱える「難しい商品」ばかり。

しかし、時として拡大ロードショウの大作ハリウッド映画よりも単館公開の小品のほうが大きな評価を得るようにその強い個性がリスナーの支持を得ることも少なくはあるまい。

それに、工房のリリースとしても代表的なものであるジョバンニ・ミラバッシやピアノ・トリオの到達点を示すかのようなジャン・フィリップ・ヴィレのアルバムも間違いなくSKETCHの作品なのだ。

ヴィレのトリオのライナーに記したことだが、ユーロ・ジャズの特色を「知性と感性のせめぎあい」に見るならば、SKETCHの作品はどれもその見事なサンプルたり得ている。フォーマットの相違、アーティストの個性はありながらも結果として「SKETCHらしい音」と言えるくらいの確固とした一貫性がある。これは実に素晴らしいことだ。

アーティスト側の牽引者は現在のところドラムスの「巨匠」ダニエル・ユメールか。老境にさしかかりながらフィリップの確信犯的な路線構築をサポートする馬力にはただただ脱帽だ。まさに重戦車の風格。

そしてそれ以外マル・ウォルドロン、レイシーといったビッグネイムが「客演」する以外は本当に自前でニューカマーを発掘してくる。このへんの「ガン」のつけかたがまた凄い(だってミラバッシやヴィレが「発見」でないとしたら何が「発見」なのだろう?)。

いずれにしてもフランスに突如現れたジャズ・レコード界のドン・キホーテ、フィリップは絶賛爆走(暴走?)中というところだ。


  最近なにかといえば「癒し」だ「ヒーリング」だという言葉がでてくる。

  うさんくさくてならない。

  ましてや音楽に癒しを求めるだのヒーリング・ミュージックだのと言う。

  おかしくてならない。


「癒し」が必要であるからにはそれだけ闘い、傷つき、疲れきっていなくてはなるまい。しかし、誰が本当に闘い、傷つき、疲れているというのだ?またもし本当にそれほどの深手を負っているならばどうしてそんなに簡単に癒されるというのだ?

たしかに社会は閉塞感で一杯だし、「どこにも逃げ場はない」だろう。でもそんなことはカミュが半世紀も前に言ってることだ。分り切ったことだ。スコセッシが「ギャング・オブ・ニューヨーク」で描き切ったように、そう、人生とは「争闘」でしかありえない。


 その闘いの中で自分を浄化させるための音楽こそ、本当は必要なのではないか?

 それはそう簡単に馴れ合うことは出来ない音楽かもしれない。

 踏み込んで聴き、二度・三度と聴き、自分との間に通路を開き、そこを通じてはじめて美の扉を押し開くことができるような音楽かもしれない。


 そして、そういう音楽の生命は長く、決して消費されることはない。

 もし、音楽による「癒し」があるとするならば、そういう形で切り結ぶことのできるものからこそ得られるような気がする。

 そういう考えに共感するに違いないあなたが求めているものは、実はSKETCHの音楽なのだ。


 最後にカミング・アウトしておこう。

 私はSKETCH MUSICのファンです。

<文 / 北見 柊>

 

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